ZEN LIFE

寺生活のあれやこれや。日々の暮らし

トスカニーニ&NBC交響楽団 ベートーベン交響曲6番&4番

ベートーベン交響曲6番田園ヘ長調作品68「田園」1952年1月14日カーネギーホールでの録音。リマスタリングが上手くいってるせいか、LP版よりはるかに音が良い。弦の厚みが全然違うのだ。第一楽章、標題が「田舎に到着したときの愉快な感情の目覚め」。出だしから柔らかい。ホルンの音まで柔らかく、一連の彼の傾向とは全く違う。幾分速めではあるがたっぷり歌っている。録音の古さや癖の強さから評価が低いのかも知れないが、素晴らしい演奏だ。第2楽章、「小川のほとりの情景」引き続きの緊張感。演奏は豊かだが、ちゃんと筋が通ってる。しっかり曲に浸れる。情景が目に浮かぶとは、このことか。もう、耳が慣れてきて、ほとんど音質など気にならない。第3楽章、「田舎の人々の楽しい集い」ここは少し軽やかに。木管、ホルンの正確な演奏が素晴らしい。第4楽章、「雷雨、嵐」第5楽章、「牧歌 嵐の後の喜ばしい感謝の気持ち」と、3楽章続けて演奏。嵐パートは荒々しく、然しながら、下品にはならず、そのまま終楽章へ。この後半3楽章は素晴らしい。全くだれたところがない。ただ、最後の和音の強奏は、響きに豊かな余韻が欲しいところではある。それでも、この曲のスタンダード的な演奏だ。

次に交響曲4番変ロ長調作品60。1951年2月3日、NBCで放送されたものだろうか。録音はとても良い。第一楽章、この曲の出だしはほんとに気持ちいい。多少演奏は乱れているところもあるが、それでもきちっとしている。シンコペーションが弾みすぎな感じがするが、これもありなのだろう。第二楽章、ちょっと物悲しいクラリネットのメロディがあったりする。これも重苦しくならない、すっきりした演奏。

第3楽章、息もつかせぬ感じで、ここもお気に入りだ。キリっとした、男前の演奏。

終楽章、休みなく突入。ド迫力で進んでいく。

 

トスカニーニ&NBC交響楽団 ベートーベン交響曲7番&2番

7番は1951年11月9日と10日カーネギーホールでの録音。

一楽章は割とオーソドックスな演奏。相変わらず切れがいい。録音もこの楽章は優秀だが、第二楽章がノイズあり。速いテンポだが、すごく歌ってる。第3楽章、速いが、さほど違和感なしだ。フィナーレは何だか素っ気ないが、それでも曲に澱みがなく爽快に終わる。

2番は1949年11月7日と1951年10月5日の録音。第一楽章、相変わらず速い。推進力が凄い。リマスターが上手いのか、響きも文句なしだ。モノラルなのを忘れる位よく響く。弦の響きが特に良い。第二楽章も速い。でも、聴いてて飽きが来ない。速くてしっかり響くのが心地よい。2番自体が可愛らしい曲だが、この2楽章の演奏は特にチャーミングでお気に入りである。第3楽章、弦がよくコントロールされている、キレのある演奏。ティンパニーがポコポコ鳴ってる。フィナーレも良い。ここでもティンパニーがポコポコ鳴ってる。そして、エグモント序曲。1952年1月14日の録音。好きな曲なので愉しく聴いた。この演奏がこのCDでは一番響きを感じないが、この硬い感じの音が曲に合ってる。後半の推進力が大好きだ。

1939年録音のベートーベン全集が良いといわれているが、チャンスがあれば購入しようと思う。

アルトゥーロ・トスカニーニNBC交響楽団 ベートーベン交響曲3番&1番

お寺のブログのくせに何故かCDのレビューである。この夏ぐらいから、40年ぶりにCDを買い集めているせいか、ついつい書きたくなってきた。巷では最近、CDが売れず、名指揮者の演奏が全集で安く手に入る。

40年前にLPをせっせと買い集めたが、如何せん、資金不足により大量購入には至らず、当時は廉価版をちょこちょこ買い集めていた程度であったが、狭い下宿のLPプレーヤーで頑張って聴いていたあの頃のLPが、このごろは僅か数百円程度で手に入るとは、隔世の感である。このトスカニーニの全集は今年に入ってアマゾンで手に入れたが、一日に一枚ずつ聴いている。記念すべき1枚目、ベートーベンの3番&1番。この3番は1949年11月28日及び12月5日カーネギーホールでのライブ録音となっている。私のLPは1953年12月6日のスタジオ録音。随分印象が違う。録音状況が良いのか、リマスタのお陰なのか、音に奥行きがあり、「トスカニーニの音」の先入観をもって聴くと肩透かしをくらう。

 速めのテンポながら、しっかりうたって、実にメロディアスだ。特に第4楽章、流れるような展開にワクワクする。速いだけでなく、音楽が生きてるのだ。

さらに1番。これは1951年12月21日の録音。これも爽やかな第一楽章、ホルンの音離れがいい。このオケは弦が上手い。響きが明るく、ドイツのオケとは違う、明るいベートーベン。というよりトスカニーニのベートーベン。ぐいぐい迫ってくるが、少しも苦しくならない。爽やかな風のような演奏。第2楽章、これも速めでぐいぐいくる。弦が上手いのでくどくならない。速くてもセカセカしていない。ツボを押さえたリズム感、スリリングな感じが良い。むしろ心地よいのだ。よく聴くと可愛いらしいメロディが生き生きしている。第3楽章、あまりテンポを揺らさず、勢いがある。余計な力みもなく、楽しい雰囲気のある楽章だ。第4楽章、響きは硬いが、弦楽器のリズム、管楽器の強音も心地よい感じでまとまっている。最初から最後まで一筆書きのような全体のリズム感、心地よい緊張感で溢れている。

こういう演奏は現代では聴けないのかもしれない。というか、これだけの個性のある、推進力のあるベートーベンを演奏できる演奏家が果たしているのかどうか。

録音が悪いとかそういうのじゃない。この全集の価値はそういうものでは測れない。音楽家の魂を聴いてくれって思うのだ。

Record China によるストーリーからみる日本の閣僚の愚かさ

Record China によるストーリーがとても解りやすく、引用させていただく。

東京電力福島第一原発の処理水海洋放出に中国が激しい反発を続ける中、あるメディア関係者が記した文章が中国のネット上で広く拡散されている。文章は、激高した若者が七つの質問によって態度を一転させたことをつづったものだ。以下はその概要。

私はここ数日、日本の処理水の海洋放出に理性的な判断を呼び掛ける文章を書いた。「パニックにならないこと。国際原子力機関IAEA)、そして科学と常識を信じること」が文章の核心的観点だ。文章の発表後、私はある若者から電話を受けた。彼は開口一番、私を「売国奴」とののしり、日本人から金をもらったのかとも言った。私は辛抱強く七つの見方を伝えることにした。

私は一つ目に、12年前、地震で起きた津波原発が破壊され、未処理の汚染水が海に流出したことを覚えているかと尋ねた。続けて「12年後、日本はIAEAの監督の下、汚染水を処理して30年という時間をかけてゆっくり海に放出する計画だが、危害が大きいのはどちらだろう」と問い掛けると、彼は「もちろん12年前の方に決まっている」と即座に答

えた。私は「その通り」と応じ、「12年前の流出で壊滅的な結果は生まれなかった。処理後なら、なおさらそんな結果にはならない」と彼に伝えた。

二つ目は、「中国と日本。国民の寿命が長くて食品安全基準が高いのはどっちか」という質問だ。彼は「日本の食品安全基準は中国より高いし、日本人の平均寿命は数十年間、世界1位だ」と答えた。私が「科学技術と経済が発展している日本の人々が自分たちの命を顧みず、基準をクリアしない核汚染水を放出して自らの死を招くだろうか」と畳みかけると、彼はしばらく黙った後、「そんなことはない!」と言った。

三つ目は、1945年に米軍が広島と長崎に投下した原子爆弾についてだ。「日本は20年もかけずに広島と長崎の放射能汚染に対処し、廃墟と化した両都市を住みやすい都市にした。広島は1994年にアジア競技大会を開催している。両都市を訪れてこうした状況を不思議に思う外国人は多い。放射能汚染に対する日本の処理能力が一流だと信じるのには理由がある」と伝えると、彼は沈黙を保った。

四つ目は、「海産物の摂取量が多いのは中国人か、それとも日本人か」という質問だ。彼は「当然日本人。日本は島国で周囲を海に囲まれているが、中国で海に面しているのはいくつかの省や市だけだ。日本人の方が絶対に多く食べている」と答えた。私はそんな彼に「正解。中国は陸地大国で海を見たことがない人は多い」と伝え、さらに「日本は海洋大国であり、海洋資源は日本にとって重要な資源だ。もし処理水が本当に海を汚染するなら、日本人こそが最大の被害者。日本人にこんなことをする理由はない」と指摘した。

五つ目は、「日本が汚染水をきれいに処理しないまま海に直接

放出した場合、よりダメージを受けるのは日本人か、それとも中国人か」という質問で、彼の回答は「もちろん日本人」だった。私は「その通り」と応じ、「最も深刻なダメージを受ける日本の人々が強烈な反対を示さないのに、中国人はなぜこれほど神経質になるのだろう」と投げ掛けた。

六つ目は、中学生の頃に学んだ地理の知識についてだ。私は、「太平洋の海流は時計周りで、海水の流れる方向から言うと、まず米国とカナダに向かってその後は中米方面に進み、それからフィリピンと台湾を経て最後に中国本土となる。米国とカナダに『世界の末日』という憂慮は見られず、欧州連合EU)は福島産の海産物をすでに解禁した。であるなら、被害が最小のわれわれが何を恐れる必要があるのだろうか」と尋ねた。

七つ目の質問になった時点で彼の怒りはもう収まっていた。しかし、それでも不信感をにじませながら、「『処理水は国際基準に達していて放出しても海に影響を及ぼすことはない』というのが日本の言い分だ。ならばなぜ日本人は自分たちで飲まずに放出するのか」と言った。私はこれに「筋の通らない理屈で、常識を欠いた発言」と返し、「基準を満たすように処理するのは飲むためではなく、環境汚染を減らすため。われわれの生活排水は処理を経て川に流され、最後は海に流れ込む。飲まないのは、こうした水が人間に極めて有害だという意味ではない。飲み水と生活排水は基準が違い、全ての水が飲み水としてためておけるわけではない」と指摘した。

私のこの七つの説明で、彼の疑念はすぐに晴れた。そして彼は罵倒したことを私に謝罪した。(翻訳・編集/野谷)

 

以上である。他国のライターによる文章乍ら、理路整然としており、これくらいのことを言えない日本の大臣の見識の低さが露呈している。首相も、一言もここまで踏み込んだ発言をしていない。最初の発言で首相がこれくらいのことを言っておれば、中国に謂れのない嫌がらせを受ける事もなかったであろう。朝からごもっともな意見を聞き、胸がすく思いである。